アタリヤホーキとは

 弊社は、明治30年代後半に矢口六介が茨城県の小川町(現:小美玉市)で、箒の原料商として創業しました。その後、矢口昇(初代社長)が箒の生産を始め、昭和33年2月に法人化、昭和30年代〜40年代にはかなり大規模に生産・販売を行うようになりました。

当時の箒はほとんどが「手編み」 の箒で、普通の使い方をしている分には何ら問題ないのですが、乱暴な扱いをすると箒の柄と頭がすぐにバラバラになってしまいます。それで一番頭を痛めていたのは「小学校」 です。皆さんも御経験があろうかと思いますが、小学校の掃除の時間は、先生が目を離したスキに「チャンバラ道場」と化します。振り回された箒は当然頭と柄がバラバラになってしまい、困った先生から「チャンバラをやっても壊れない箒は無いのかしら?」 との声を寄せられたことがきっかけで、「アタリヤホーキ」 が誕生することになります。

また、当時の箒は手編みを含めすべて手作りですので、生産数量に限界があります。この「柄の抜けない箒」 「箒の大量生産」 の2つの問題を解決すべく、矢口和(2代社長、当時専務)が試行錯誤の上、「箒の柄と草の部分をプラスチックで圧着する」 工法を開発しました(実用新案出願公告・昭43-26148)。

宣伝カー写真
宣伝カー(昭和30年代)
東京本社写真
東京本社(昭和30年代)
左:初代社長・矢口 昇
右:2代社長・矢口 和
実用新案公報写真
実用新案公報(昭和43年)
区切りライン

この箒は学校関係を中心に高い評価を受け、納品の条件に「アタリヤ、或いは同等品」 と明記する自治体が数多くあり、学校向けの箒の標準としてたくさんの学校に納めさせて頂きました。しかしその後、プラスチックケースに草と柄を入れてタッカーで止める工法による、価格の安い箒が作成される様になり、そのような箒に取って代わられることもしばしばおこりました。時が経つにつれ、徐々に「アタリヤホーキ」 の本質が忘れられ、見てくれだけが同じの、「安物」に取って代わられてしまったのです。 現在でも自治体によっては「アタリヤ、或いは同等品」 を納品の条件にうたっているところがあります。しかし、ある自治体ではその後に「柄の抜けを防止する為、釘で固定すること」 と書いてあります。本当の「アタリヤホーキ」 には抜け止めの釘は使用しておりません。当たり前ですが抜け止めの釘は必要ないからです。

見本市写真
見本市(昭和30年代)